神秘の鏡

神社にある鏡

高い位置にあったりして覗いてみても何もうつらない、
もしくは神社の風景か・・・

別に自分の顔などが見えなくてもいいのかなと思いました。
清められた場所で、
自分自身のこころを確かめる

お参りをすると邪念が消えてこころが洗われる

神社には大きな木があって、それだけでも気持ち良いです。
自然のなかで、自分の願いや祈りを届けるのです。
なんだかスッキリ!します。





神道
魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、
魂を神の意志が宿る至聖のところとして崇拝しています。

神社には礼拝の対象物や器具がいちじるしくとぼしく、本殿にかかげてある
装飾のない、一枚の鏡が神具の主たるものなのです。
この鏡の存在理由とは、
人間の心の表象というわけです。

心が完全に落ち着き、
清明であるとき、
そこには「神」の姿を見ることができるということです。


すべてが神の分身のようなものですから、当たり前なのかもしれませんが、
人はそのように思うことをいつからか忘れてしまった・・・
本来人助けや、
人に何かを与えたり、教えたりしているほうが気持ち良いものです。

現在は、なんだか足をひっぱりあうとか、
傷のなめ合い、
何かを奪ってしまったり、
求めすぎてしまったり、
経済的な問題があったり、
自分のことで精いっぱい・・・という人が多いのですね。

とにかく、困った時だけの神頼みは意味がないのかもしれません。

社殿の前に立つとき、
輝く鏡の面に己自身の姿を見ること。
そして参拝という行為は、
「おのれ自身を知れ」に通じるのです。

ギリシャや日本の教えでは、
己自身を知る、自己知というものは、
人間の肉体的部分の知識、解剖学や精神物理学の知識を意味していません。

この場合の知とは、
道徳的な意味合いに属しているのでしょう。
道徳的性質の内省を意味しています。






天地生々の主宰、人にやどりて心となる。

故に心は活物にして、常に照々たり。


その本体の霊明は常に照々たり。


その霊明人意に渡らず、自然より発現して、よくその善悪を照らすを

良知という、

かの天神の光明なり。




単に善悪をの区別にとどまらず、
心理的諸事実と物理的諸現象の性質も、
また知覚する能力さえもが、良心にあるということなのですね。